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さだまさし「私は犬になりたい」にみる昔の字余りフォークソング

湯島の夜/湯島本店  Night Of Yushima

さだまさし...くまだまさし・・・似てる。さだちゃんといえば、最近、ソフトバンクのCMソングがしつこいくらいに流れている。かみさんがファンでおいらも何度か一緒に彼のコンサートに出かけている。さだまさし=ださい...とういうのは大半が食わず嫌いなのであって、おいらもそのひとりであった。というと好きなのかファンみたいだ...が、答えはNO...なのである。実際に見た彼はギターがうまくて歌もうまいのである。音楽的にもサザンとかエグザイルとかなんとかチルドレンみたいに“いつも同じ様な曲”を作らない。

ただし、声は気持ちが悪いし、「映画で作った借金のため」とかやたらに言いやがる。その割には生活に困っている風には見えないし、高価なギターなんか使っている...。なにやら嘘くさいのである。

ン???持ち上げたり、落としたり...いったいオマエは好きなのか嫌いなのかどっちなんでえ!ってことになると思うが、人の好き嫌いなんて軽々しく言えないが「嫌い」なのである。

1年に4回くらい国家放送局であるNHKでも深夜に全国各地の支局で生放送のディスクジョッキーみたいなこともしていて要領のいいところを見せる。

で、今回の「私は犬になりたい」も要領の良さの片鱗を見せる。キャッチーな70年代フォークブーム時の様な簡単なコード進行によるギター1本による金のかからない冗談のような曲構成。歌詞には横浜や実籾、海老名まで行っても電車代だけで450円以上になってしまって帰れないとか、その土地の住民心をくすぐってしまう。

ったく...本当に要領のいい嫌な偽善者である。

それでどうかと言えば...実はおいらも「私は犬になりたい」を買ってしまったのである。だって、490円なんだもの。

「再会の街で」に見る音楽

「再会の街で」アダム・サンドラーの映画。原題は「Reign over Me(俺に従えってこと?)」ザ・フーのアルバム“四重人格”の2枚目最後の絶叫曲。なんで早く見なかったんだろう? そんなことはどうでもいいか。見るのも見ないのも自分が決めるし、こういう映画に出会うのも運命のひとつだし...な。しかし、どうでもいいけど見終わって泣いちゃうのには困ったものだ。なんじゃそりゃ?

重苦しい空気の中に話が展開されていく。誰にでもありそうな退屈で平凡な毎日...。主人公のひとりである歯科医の男は自分の幸せだがつまらいことに我慢している人生に毎日が押しつぶされているような気がしていた。

911テロで妻子を失った男。かつてはルームメイトであった友人は歯科医の男。ある日、街中で彼らは再会する。歯科医の男は妻子を失った男の家族のことを知らない。だからこそ彼は心のよりどころとしてかつての友人である歯科医の男と再会して救いを求めるのだった。歯科医の男も平凡な毎日に飽き飽きしていたのだった。実は歯科医も男と再会によって救われるものを感じていたのだ。

妻子を失った男の部屋の壁面の棚に並んだレコードを見て歯科医が「よく集めたな」と褒めると「5500枚集めた、もっと集める」と言う。

妻子を失った男がスクーターのような妙な乗り物に乗って帰ってきたと思ったらプリテンダーズのアルバムを見せて「歴史的なデビューアルバムだ」と言う。「音楽の趣味が悪い」と言うと「何故?」と言うやアルバムの匂いをくんくんと嗅ぐ。「70年代の匂いだ」と言うと「80年代初めだ」と言う。

スプリングスティーンの「リバー」やザ・フーの「四重人格」をお詫びに持ってくる。

24の父親が裁判官。リブ・タイラーが魅力的。

妻子を失った男の部屋でテレビゲーム「ワンダと巨像」。最初、歯科医は異常者を見るような目で見ていたのに、自分もはまってしまう。

妻子を失った映画館に連れて行かれた歯科医。「メルブルックスを見て大笑いしなきゃ」と誘われるままに早朝5時までオールナイトを見てしまう。見終わってから家に電話すると父親が死んだと聞かされる。「親父が死んだ」と言っても「メルの余韻を忘れない様に朝食を食べよう」と言う。

妻子を失った男役はアダム・サンドラー、彼の映画は3本しか見た事がないけど、その範囲で大好きな俳優だ。コメディアンなのに悲哀が感じられる。この映画では、なぜかボブ・ディランにしか見えない。なかなか格好が良い。髪型でこれほど変わるものか?

これまでテレビの深夜劇場で見た彼の出演作「パンチドランク・ラブ」「NY式ハッピー・セラピー」は、なぜかともに精神病? を罹患した様な役所で好きな映画だ。

アダム・サンドラーが乗っている小型スクーターのようなものは時間を表現しているようだ。記憶(時間)を思い出したくないサンドラーは道を歩かない。歩けば記憶を辿って妻子の記憶が蘇るからだ。だから“自分に質問する人間”を寄せ付けない。妻子を失った記憶の一切から逃げ出したいのだ。

だから新しい出会いのみが彼の救いなのだが、質問してくる人間は嫌いで、なるべく自分に寄せ付けない様にしている。そんなときに911テロ前に友人だった男と出逢った。再会したのだ。同じ様に質問してくる歯科医を初めは寄せ付けなかったが、捨てた記憶のかけらのうち、911前の青春の記憶が戻ってきた。彼は歯科医に青春を求めつきまとった。歯科医も初めは異常に思えたサンドラーを敬遠していたが心から心配する様になって、しかたなく相手をしているうちに自分の青春も蘇ってきた。

ま、この映画に対してはいろいろ書きたい事も、まだ気がつかない音楽的なこともあるだろうけど、それはおのおのが判断するのだ。

あ、911テロで泣かせる映画なんてオレは嫌いだ。自業自得だからだ。きりがない仕返しなんて政治家だけでやってりゃいいのだ。国民が兵隊として巻き込まれる事はない。これからは戦いは絶対に拒否するのだ。でも、家族が殺されたら...うーん、どうすんだよ。

911テロに引っかけて涙を誘うところは最悪だが、家族が交通事故死や病死、天災死なんかじゃ泣けない。いたるところに転がっていてあまりにも普通だからだ。ほんじゃしかたないか? 911テロなんてのをサンドラーの様に忘却して見るべきだ。

忌まわしい清志郎様

清志郎様が亡くなった。

あの声と音楽性を評価できない僕にはどうでもいいことだが、人が死ぬというのは大変な事だ。

亡くなったといって、多くの人の様に「ロックンロール人生を送った立派な人」みたいな妙な表現で褒め讃えたりできない。僕が思うロックンロール人生とは“一度も陽の目を見ずに売れずにみっともなく死んじゃう芸術家”のことでしかない。僕の規定(なんじゃそりゃ)で言えば、音楽が売れては駄目で、売れずに薬中毒(麻薬は不可。睡眠薬は可)でめちゃくちゃやって死んじゃうとか、なんでもないのに鬱病で死んじゃうとか、自殺したいって言ってもなかなか死ねずにようやく自殺できちゃったみっともない死に方をする奴しかロックンロールとは認めたくない。

世の中の流れに乗っかって注目されている人間なんか全然ロックンロールじゃない。

みっともない人生を送れた人間しかロックではない。ん? 待てよ..........そう言う意味で言えば人間全部がロックンロールなのかもしれないな。